北陸大学の正常化を目指す教職員有志の会会報第11号(1997.10.3発行)
教職員の皆様へ
論 説
「ご父母が何より望むことは」の文書について
この文書は、金沢の本学の会場で行われた父母会の地区別懇談会の直前に、9月20日付けの「With Plus」に掲載されたものである。その内容は、すでに他の地区別懇談会の際に配付された佐々木学長名義の文書「ご父母の皆様へ」と同趣旨であって、これを教職員に対しても明かにしておくという趣旨のものといえよう。
この文書は、まず9月13、14日に地区別懇談会が開かれたこと、20日には金沢の本学で懇談会が開かれる予定であることを述べた後、先日の懇談会の直前に、教職員の任意の会の代表を差し出し人とする手紙がご父母の方々に送付されたことを指摘し、その内容が私見に基づく批判や自己主張に終始しており、教育、研究とはおよそかけ離れたものであるとし、学外へいたずらに不安を呼び起こす文書を送る行為は、教職員としてあるべき姿ではないと強く非難している。
教職員有志の会の代表が父母に手紙を出したという事実はその通りであるが、その内容および手続に対する上のような批判には大きな疑問がある。まず、その内容が私見に基づく批判や自己主張に終始しているという評価こそ一方的である。そこに指摘されているのは、理事者によるお手盛り感覚の金遣いと学生監禁事件に関する具体的な「事実」、文部省による異例の厳しい行政指導が行われたという「事実」であって、これを私見や自己主張に終始したものと評価することは誇張という以上の偏見に満ちた歪曲といわざるを得ない。それが「事実」に反する自己主張に過ぎないというのであれば、その点を積極的に調査し立証すべきである。また、これらの事実の指摘が、教育・研究とはおよそかけ離れたものであるという批判も的外れである。すでに学長の文書に対する批判でも指摘したように、これらの事実こそ、本学における教育・研究の環境と内容にまで深刻な影響を与えているのであって、これらをかけ離れた問題だと考える者は、それが教育と研究の主体である本学の教職員の信頼と協力を失わせる原因であることを知りながら敢えて無視しようとするものである。大学が清潔なイメージを回復する中でこそ、教職員は教育と研究に専心し、沈滞した雰囲気を打ち破ることができる。学長の文書においてさえ、教育の推進には教学と法人の緊密な体制が必要なことが自認されているのであって、手紙の内容が教育・研究とおよそかけ離れたものであるから不当であるとするのは、誇張をこえた欺瞞的な手法であるとさえいわざるを得ない。
さらに、学外にいたずらに不安を呼び起こす文書を送付することは、教職員のあるべき姿ではないという非難にも疑問がある。ここでは学外といっても本学のご父母という最も緊密な関係者であり、大学内の秘密ともいえない情報を伝えることがなぜ非難されなければならないのか理解できない。当局が情報を独占し、不利益な情報の開示を統制できるような時代ではない。文書の内容が「いたずらに不安を呼び起こす」ものであるというのは、法人当局の自分勝手な判断であって、それがいたずらな不安を呼び起こすものかどうかは、情報の受け手が判断すべきものである。教職員を非難する前に、自ら経理を含む情報をご父母に対して公開して批判を仰ぐというのが、当局者のとるべき態度というべきである。
次に、この文書は、9月13、14日の地区別懇談会の模様に言及し、一部の会場では、現在、本学が克服すべき課題について、それが教育、学生指導に影響を与えているのかどうかという質問があったが、教育現場に支障は生じていない旨を説明し、納得して頂いたとし、一部の教職員が喧伝しているような驚き、憤りを訴える声はなく、むろん動揺も見受けられなかったと述べている。
詳しい事情はわからないが、それにしても、懇談会の様子についてのこのような評価の仕方には、何か異様な問題関心の偏りが感じられる。それは、教職員有志の代表の手紙にもかかわらず、別段の支障はなく無事終わったではないかといわんばかりで、論調は挑発的でさえある。これは異常な反応であるといわざるを得ない。教育現場への影響は本当に心配ないのか、学生の要望がどの程度聞かれているのか、教職員の現場の声が本当に伝わるようなシステムになっているのかといった点の地道な点検こそ必要であるが、そのような姿勢を全く伺うことができないのは、現在のシステムの下では、所詮は責任を負わされた中間管理職員の無難な報告しか期待できないからであろう。
懇談会の中での個別的な面談では、担当教員から学生生活の現状を知らされ、励ましと助言を受けたご父母の表情などの描写があって、結論的にはご父母が何よりも本学に望むことは、個々の学生に対する情熱に満ちた教育、学生生活や進路のきめ細かい指導であると指摘している。この部分の指摘自体は決して間違っていないし、むしろ当然のことがらであって、われわれはその不十分さをこそ反省しなければならない。しかし、そのことが、「体制」の問題を懇談会とはかけ離れたものとする論理に用いられるところに真の問題がある。教職員に学生に対する情熱に満ちた教育と指導を期待するためにこそ、体制の「正常化」が必要なのであって、そのことを心ある教職員は骨身にしみて実感しているのである。教職員の情熱を引き出す条件は何かということこそ、真剣に考えるべきである。
文書の最後の段落で、私学である本学には、独自の教育理念を教育現場に反映し、社会の負託に応える使命があるとし、懇談会はご父母との連携を強め、本学に寄せる期待や要望を肌で感じる年に一度の機会なのであるから、その連携にひびを生じさせる行為は断じて許されないと非難し、懇談会で話すべきテーマは当然、ご父母の最大の関心事である教育・研究でなければならないとした上で、皆様の理解と協力をお願いするという形で結ばれている。
本学に独自の教育理念とは何かが問題であることはともかくとして、ここで主張されているのは、懇談会ではご父母の最大の関心事である教育・研究のテーマに限定し、それ以外の「体制の正常化」問題を持ち込むことは、ご父母との連携にひびを生じさせるもので許されないとする趣旨と思われる。しかし、これは、きわめて短絡的な論理に基づいているばかりでなく、法人当局の手前勝手な要請である。それは、懇談会の場で大学の一連の不祥事が問題にされることをおそれ、これを事前に封じ込めるために、ご父母の最大の関心事が教育・研究にあるという当然の事理を援用したにすぎない。ご父母の最大の関心事が何かはご父母自身が想起されることであるばかりでなく、教育・研究と「体制」の問題を排他的な関係にあるとする論理自体が崩壊している。体制のことには触れることなく、教育・研究の面で連携せよ、とのご下命に従う教職員やご父母の忍耐にも限りがあろう。「体制」のことを問題にしなくてもよい懇談会にするためにこそ、体制の「正常化」が必要なのである。