北陸大学の正常化を目指す教職員有志の会会報第10号(1997.10.2発行)

教職員の皆様へ

論 説

学長名の文書「ご父母の皆様へ」について

 

 平成9年9月に行われた地区別懇談会は、この1年間、北陸大学をめぐる問題がマスコミで報じられたこともあり、とくに「教職員の任意の会の代表の名前による手紙がご父母に送付された」こともあって、法人当局は例年になく緊張し心配していた様子がありありと伺えた。懇談会に出席する教職員をあらかじめふるいに掛けたと思われるふしがある上、出席された父母らには、佐々木学長名の「ご父母の皆様へ」と題する文書が配付されたのである。 ここでは、この学長名の文書について取り上げ、その中に見逃すことのできないいくつかの問題が含まれていることを指摘しておきたい。

 この学長名の「ご父母の皆様へ」と題する文書が、有志の会代表の手紙による影響を特別に意識し、これに対抗して書かれたものであることは一見して明らかなところであるが、手紙の内容と直接論議せず、「体制」の問題は懇談会の本筋とはかけ離れたものであるとして、逃げの姿勢を示していることが明らかである。しかし、それが成功しているかは疑問である。

 この文書は、本学の教育の基本方針として、小人数教育によるきめの細かい指導を徹底し、各種検定・資格試験の合格率を高め、卒業後の就職・進路の指導を徹底させることに全力を傾注しているとしているが、問題は、この肝心の教育の任にあたる教員のおかれている状況や、教育・研究の環境自体が、ほかならぬ「教学と学校法人の緊密な二人三脚の体制」に深くかかわっており、その体制の危機が教育の場面にも危機をもたらしつつある点にこそあるといわなければならない。

身近な一例として、例えば法学部内に設置されていて、これまで各種試験の合格率を高めるために貢献し、大学がその存在を喧伝していた「司法行政研究室」が、今や消滅の危機にさらされており、佐々木学長自身が法学部長時代にこれに代るべきものとして提案した「司法研究センター」構想は誰の協力も得られないまま棚上げになっている。法学部の人事も全く停滞したまま、非常勤講師と集中講義によって辛うじてカリキュラムが維持されているというまことにお粗末な状況にある。これらは、教職員の信頼を基礎としない「体制」のあり方が教育の内容に直接影響していることの証左である。

この文書は、本来、教職員と父母との共通のテーマは、学生の教育・研究をおいて他にはないはずであると言い、教職員有志の行為は教育の本筋からかけ離れた「体制」の問題をいたずらに学外に持ち出すもので、教職員としてあるべき姿とは考えられないと強く批判している。しかし、一方では「体制」はどうなのかという点になると、例の常套的な言葉が次のように繰り返される。「この体制を強固なものにするため、現在、教学の最高機関である全学教授会を軸に協働関係の確立に向けて真摯な議論と努力を続けています」というのである。

 この表現は、4月以来繰り返し使われてきたものであり、その実態を知らない者から見れば、北陸大学は正常化に向かいつつあるという「錯覚」に陥るであろう。しかし、それが全くの「幻想」であることが、ようやく最近明白な事実として現れた。全学教授会の委員の多数による学長公選制案が提案されたにもかかわらず、学長が採決を拒否したため、10名の委員が辞任を申し出るという深刻な状況が顕在化したのである。全学教授会では、4月以降、協働関係の確立のための成果は何一つとして生まれていない。そして、その間、法人当局も、文部省の行政指導にもかかわらず、基本的には何一つ「体制」を改善する兆しさえ見せないのである。

 教職員有志の会代表による「手紙」は、このような大学の現状の一端でもご父母の皆さんに知ってもらうために出されたものである。学長は、この会が学内規定上の根拠を持たない教職員の集まりであり、内容的には、それが協働関係の構築の努力に水を差すもので、一方的な批判や誤解を招く表現に満ちていると非難しているが、水を差すものといわれる「協働関係構築の努力」とは一体何なのであろうか。全学教授会では、学長選考規定の改正だけしか議題にはなっておらず、その議題すら空転状況におかれているというのでは、その実態は無いに等しい。

 手紙の内容が一方的な批判や誤解を招く表現に満ちているのというのも、それこそ一方的な非難であり、是非その根拠を示して頂きたいものである。これらの事実は、本来、学校当局が厳正に調査をして、教職員や父母に報告すべき筋合のものである。誤解を招くおそれがあれば、自らその誤解を正すべきであって、それをしないのは無責任の批判を免れない。自らがなすべき責任を棚にあげておいて、事実の指摘とその情報を関係者に伝えたことを非難するのは筋が通らないというべきである。

 学長が文書の中で、教育の本筋とかけ離れた私見や主張をいたずらに学外へ持ち出す行為は、到底、教職員としてあるべき姿とは考えられないとしている点にも問題がある。まず、学外に持ち出されたのは、北陸大学に存在する「客観的な事実」の指摘であって、決して私見や主張など、争いごとに対する評価ではない。また、それが教育の本筋とかけ離れたものとするのも皮相な見解であることは、すでに述べたところである。現に、この文書自体も、教育の推進には協働関係の「体制」が必要なことを認めている。学外に持ち出すといっても、ここでは学生のご父母に知らせることであって、ここにあげられた事実は、社会的な関心事であるとともに、とくに本学の関係者にとってはまことに重大な関心事である。

 この文書は、有志の会が手紙を送った行為を、ご父母に不要なご心配をおかけして誠に申し訳ないと言って、一見謝罪しているかのようであるが、これも全く見当違いである。有志の会の行為や主張がご父母に不要なご心配をかけるというのは、学長や法人当局者の勝手な解釈であって、それが「不要な心配」なのかどうかはご父母自身が判断されることである。むしろ北陸大学の多くの教職員は、有志の会の手紙で示された「事実」こそがご父母に正真正銘の心配をかけるものであって、これらの事実を明らかにしてご父母に謝罪し、その責任をとるのが筋合であると考えている。

 この矛盾は、学長が「私たち教職員」という表現を用いて、ご父母に対して学生の教育に責任を負っておりますといっているその「教職員」の多数(教員の7割)が、実際には手紙の主体である「北陸大学の正常化を目指す教職員有志の会」に属しているという事実にあらわれている。ご父母がこの事実を本当に知ることにでもなれば、本気に心配されることになるのは必定である。

批判を受けない権力は必ず腐敗する。経理を含む手持ちの情報のすべてを開示して、ご父母の批判を進んで受ける方向に「体制」を変えることが真に必要である。