北陸大学教職員組合ニュース第 73号( 1997.6.2発行)
佐々木「学長」やっと所信表明
理事会と教学の協働関係 を強調!
かけ声でなく、施策はあるのか?
組合ニュース第
70号で、7割近くの北陸大学教員が、佐々木「学長」の退陣を望んで退任勧告している事実を報じ、就任1ヶ月を過ぎても何ら所信を表明できない学長の体質にこそ問題があると指摘した矢先、 5月21 日の「With 」紙上に、佐々木「学長」がやっと言葉を発しました。曰く「理事会と教学の協働関係こそ重要」。この文言は、
3月 18日の文部省の本学理事会への行政指導において使われた言葉であり、行政指導の意味を理解できていない佐々木氏によって使われたことは、白々しいの一言に尽きます。所信表明は、そんな言葉をもてあそぶものではなく、大学正常化に信念と意欲があるのか否かを表明することが必要です。教員達は、佐々木氏が何をもって、協働関係を築こうとするのか、その方策を知りたいのです。にもかかわらず、具体的な当面策を提案することもなく、当たり前の一般論にこだわっています。佐々木氏の決意と受け取れるとしたら、それは、“現在抱えている諸問題を解決したい。・・・・
そのために全学教授会を中心に努力したい。”という部分でありましょう。しかし、佐々木氏は「諸問題」を一つ一つ列挙できるでしょうか。そして、諸問題の最大は、信任をえていない学長と学部長がいて学内混乱の源になっていることであり、佐々木氏が問題解決に努力すればするほど自己否定につながるという矛盾になります。
そのことが分かって述べているとしたら、これは教員を欺くものでしかありません。
教職員組合は、学園の正常化、民主化を求めて結成された組織です。学長・学部長の公選制を求める教員有志の会(教員
136名)の運動を積極的に推進し、また一方的で不当な学長選任の無効を訴えた裁判(原告団教授 25名)に支援を表明しています。今回の佐々木氏の言葉には、“多数”の教職員で結成された組合の精神を踏みにじるものが感じられます。 組合ニュースとしてこの所信表明を取り上げない完全無視も考えましたが、「学長の公約」としての事実を残すため、コメントいたしました。また、法学部教員から説得力のある文書をいただきました。ここに掲載し、皆様のご批判を仰ぎたいと思います。
学長はどちらを向いているのか! 法学部教員
佐々木学長は、4月1日付けで任命されて以来、理事会や全学教授会には姿を見せるものの、教職員には公式のあいさつも所信表明もしないまま、1ヶ月半も経過した後、ようやく5月21日付けの色刷りの「 With」で「理事会と教学の協働関係こそ重要」という簡単な一文を公表された。
しかし、その内容は何もないに等しいもので、教職員が本当に聞きたいことには全く触れておらず、学長はいったい何を考えているのか、逆に問いかけたい衝動にかられる。ともかく、この文章に沿って、学長の言い分を聞いてみよう。
まず最初のところでは、4月1日に悩み考え決心して学長職に就いてから、入学式や諸行事などが続く中で40日余りが過ぎてしまったという経過を語った後、本学の現状と将来を考え、理事会と教学組織の協働関係を作り上げるために最大限の努力をしたいという決意が述べられている。
しかし、まず何よりも皆が聞きたいのは、佐々木氏が学長職に就くかどうかについて何を悩んだのか、なぜあえてこの時期に重大な職を引き受けられたのかという点である。学長の選任方法については、すでに衞藤氏の任命をめぐる裁判が係争中であり、大学側が明らかに和解案を拒否した直後の再度の一方的な任命行為であることを十分に知りながら、なぜ即座に無条件に承諾の決心をされたのか、誰もが疑問に思い理解に苦しむところである。3月31日の法学部教授会での釈明では、佐々木氏は双方の和解案の内容も知らないという有り様で、ただ現行規程に従って任命されたという報告を繰り返すにとどまり、あきれはてた大部分の教員による不信任を受けてしまったのである。今回の文章では、そんなことがあったのかといわんばかりの開き直りしかなく、人間としての悩みや謙虚な姿勢が全く伝わってこないのである。
佐々木氏が「理事会と教学組織の協働関係」を作り上げるために努力するという点は、すでにこれまで何回も聞いてきたので、事新しいことではない。車の両輪にたとえて両者の信頼関係を樹立することが大切だというのである。しかし、問題はその内容と作り上げ方にある。まず、疑問なのは学長自身の立場をどう考えられているのかという点にある。一見すると、自らが両者の仲介役としてその橋渡しをしたいという風にも考えられる。しかし、学長自身が教員の意思を無視して理事会によって任命された存在であるという事実が忘れられてはならない。理事会は仲介役と考えたとしても、教学組織からは不信任を受けている者がそんな役割を果たすことができないことは自明である。
では、佐々木氏はどのようにして両者の協働関係を作り上げて行くというのであろうか、この点が最も知りたいところであるが、この肝心の点がわからないのである。衞藤氏が学長に不適任と判断された際、衞藤氏に来てもらっても活躍してもらう場がないというのがその理由とされたのであるが、佐々木氏ならばどんな活躍の場があるというのであろうか。結論的にいえば、教学組織に信任されないような学長では、理事会との協働関係を作り上げるための基本的な資格がないといわざるをえない。出直して下さいという以外にはないのである。
第2の段落では、人間が喜怒哀楽の感情とソロバン勘定を持った動物である上に、価値観や人生観、イデオロギー等の相違から紛争が複雑化することは避けられないが、共通の理解や客観的視点から合理的に解決できないものはないといった一般論が展開されている。これは、本学の深刻な現状を抽象化して、人間の社会生活一般の紛争論にすり替える巧妙な論理であるが、すでに底の割れているお粗末な手法である。
なぜ、とくに本学において深刻な対立や紛争が生じているのかという点を、学長はしっかりと見据えるべきである。理事会と教学の協働関係が何時ごろから崩れてきたのか、何がその契機となったのかを歴史的に見れば、学長公選制を任命制に変更し、教授会から教員の人事権を剥奪してしまうというような管理体制のおそるべき変質こそがその原因であることを誰でも気づくはずである。それは理事会が教学組織を信頼しなくなったことが原因で、今や教学組織が理事会を信頼しなくなったという単純な構図である。
法学者である学長に、こんな簡単なことがわからないはずはないにもかかわらず、依然としてこれを人間社会の紛争論としてしか説明できないのは、理事会に任命された学長としての宿命的な限界であるとしても、何とも情けない姿である。
第3の段落では、さらに進んで、紛争の解決のために多数決をもってすることが民主主義の鉄則であるという人がいるが、多数決のルールだけが強調宣伝されて、民主主義を育み支えてきた基盤、人間観、哲学的思想を根付かせることが重要であって、それは人間が有限的存在であって決して神=絶対者たりえないという考えである。したがって、自己の主張を絶対化したり、人としての尊厳を軽視して、その正当性を主張することは許されないといわれている。
これも、一般論に名を借りて、明らかに本学の教学組織の側の主張を牽制するという意地汚い手法の典型であることは、目に見えている。そんな抽象的なことをいわずに、はっきりと誰のどのような主張や行動が批判されるべきかを具体的な形で示すべきである。しかも、ここで展開されている一般論さえ、学問的な精密性を欠いた単純な理論の接合に過ぎない。民主主義が価値相対主義の立場から独裁的な絶対主義を排斥するものであることは当然としても、そのことが多数決のルールに関連があるように思わせるような論理を導き出すのは筋違いである。少数者の意見の尊重という形でこそ問題を立てるべきものであろう。
問題は、意思形成のための手続にあるが、この点でいえば、教学組織の意見を全く聞くことなく規程を変更し、自己の主張を絶対化して人としての尊厳を軽視してきたのは、いったい誰だったのか、そして全学教授会で多数がとれると見るや、自主選挙参加への警告を多数決で裁決し強行したのは誰だったのか、学長は自己の行動を含めて、厳しい評価をこそ下すべきではなかろうか。理事会も学長も、民主主義を育み支えてきた基盤、人間観、哲学的思想を明らかにし、自己の主張を絶対化したり、人としての尊厳を軽視したりすることのないよう努力してもらいたいものである。したがって、この文章もそっくり学長にお返ししなければならない。
学長は、理事会と教学組織の協働関係といいながら、実際には理事会と一体化して教学組織の側の主張や行動を一般論の形で暗に牽制し、理事会の側の主張や行動については、遠慮がちで比喩的な形でさえ批判的な表現は何一つ示されていない。文部省の行政指導を受けた虚偽報告や、功労金規程の改正や、職員に対する不当労働行為など、なぜ正すべき点を率直に指摘して信頼の回復を訴えないのであろうか。全く不可解である。
第4の段落では、これまた一般論の形で、現状を改革する場合でも、法治国家においてはあくまでも現行法制度の中の手続によって行うべきものであって、たとえ目的が正しく改善が急がれても、手段が目的や動機によって正当化されないのが法治国家ではないかといわれている。
この論理も、すでに4月はじめの時期に、北元理事長によって用いられたものを大袈裟な法治国家論を持ち出して再現したもので、奇しくも理事会の論理と学長の論理が完全に一致していることをはっきり証明するものとなっている。
ここで一般論とされているのは、たとえば表現の自由という正当な目的であっても、電柱にビラをはるという手段を用いることは、現行の軽犯罪法に違反して許されないという形で問題になることがある。しかし、これは犯罪行為としても禁止されている行為の場合であり、かつその場合にも行為の「実質的違法性」は表現の自由の持つ憲法的な価値と発生した損害との比較衡量で決まるのであって、決して単純なものではない。まして、このような論理を学内の現行規程に対する違反に類推することは法律の素人を欺くものであるといわなければならない。
なぜなら、大学当局が現行規程に反して決定を出すことが規程違反であることは明らかであるが、決定権を持たない一般の職員の行為がこの規程に反して決定を下すということは本来あり得ないことである。理事会も学長も、学長公選制の署名運動や教員の自主選挙による意思表示などが現行の規程に反するといいたいのであろうが、これらの運動は現行の学長任用規程の改正を要求しているのであって、現行規程が改正されなければ公選制が実現しないことは誰にいわれなくとも当たり前のことである。現行規程の改正は、もちろん現行規程の改正手続にしたがって行われるべきものであるが、その権限を有する理事会が多数の教員の要望を理由なく拒否しているが故にこそ、自主的な要望の運動が強くかつ継続しているのである。問題は、それが実質的に不当な要望なのかどうかにかかっており、言論や表現の自由はとくに学問の府である大学においては最大限に尊重されるべきものである。法治国家は、むしろ実質的に違法な行為によって他人の利益を侵害しない限り行動の自由を広く保障するものであり、国民の自主的な改革の提案や運動こそが民主主義を支える基盤であるというべきである。本来、教授会や全学教授会が正常に機能していて、その意見が理事会に反映するようなルールが確立しているのであれば、改革の手続もスムースに進むはずであり、教員から信任されない学長が出現するはずもないのである。
第5の段落では、人は努めて協調し対話によって問題を解決すべきであり、互いに相手の言い分に耳を傾けることが必要だとし、私立大学における法人サイドと教学サイドは車の両輪のような関係として、互いの主張に耳を傾け相互理解を深めなければならないといわれている。
この論理も既に聞き飽きた車の両輪論の蒸し返しであって、両者が相互に信頼関係を持たなければならないことは、わざわざ言う必要もない当たり前のことである。しかし、本学では実際は「片輪」なのであって、決して「両輪」ではないところにこそ問題がある。学長は、理想と現実を混同している。教学側が学長や学部長の選任権も教員の人事権も奪われたままで、それでも「両輪」だと本当に考えられているのだろうか。これを真の意味で「両輪」にする努力こそ必要であるにもかかわらず、わが学長は対話と相互理解を叫ぶのみという有り様である。両輪の間にかつては「対話」のあった時期もあったが、現在では全くない。理事会や理事長は、教学側からの質問にさえ、ほとんどまともに答えようともしないのが悲しい現実である。相手の主張に耳を傾けよという説教は、理事会や理事長、そして学長自らに向けられるべきものである。
第6の段落では、北陸大学の学生数や卒業生数をあげた上で、大学が厳しい冬の時代を迎えつつある現在、一日も早く理事会と教学組織のあるべき協働関係を築き、現在抱えている諸問題を解決して、自由で充実したキャンパスを持つ明日の北陸大学のために、全学教授会を中心に衆知を集めて努力したいとし、心から就任をお願いした3学部長をはじめ、多くの教職員の理解と協力を得て大任の一端を果たしたいと結ばれている。
しかし、ここにきても学長には、北陸大学の現状に対する危機感が薄く、一日も早くといいながら早速になすべき具体的な課題もそのための方策や手続も全く呈示しないままに、3学部長の下に理解と協力をお願いするという一方通行の意思表示に終わっている。このままの状態が続けば、北陸大学は危ないという危機感は多くの教職員が実感しており、この点では学長も同意見であるように見える。しかし、教学の責任者たる者が、この段階に至っても、全学教授会を中心にして正常化を図るという歌い文句以上の何らの具体的な方策を呈示しないし、できないというのは、まさに無責任であるというほかない。
たとえば、全学教授会で具体的に何をしようというのか。学長・学部長の公選制をいつどのような形で実現しようというのか。失われた教授会の人事権を回復するために何かしようというのか。理事会と教学組織との協働関係を築くといわれるが、それはいつどのような形で実現に向かうのか、対話はいつどこで始まるのか、肝心なことは全く提案されていない。これで多くの良心的な教職員の理解と協力が得られると本当に考えられているのであろうか。任命された3学部長とも、学部教員の多数によって不信任になっているという状況の下で、不信任された者のイニシャチブで何事かが動くと真面目に考えられるのであろうか。
学長のこの文書は、4月段階で出された理事会側の声明文と実質的に変わりがなく、さらに持って回った形で、若干の法理論の装いを加えて再現したものに過ぎない。それは、学長が、予想された通り本質的に理事会側の人物であることを内外に示すことになった。教職員の総意から遊離した北陸大学は、ますます混迷を深め、袋小路に行きつかざるをえないであろう。学長は、まず教学組織の側との対話によって、その信頼を得る道を探る努力をされるべきである。