北陸大学教職員組合ニュース204号(2003.12.16発行)

人に、人差し指で指示すれば、残りの指三本は自分に向く」

 法科大学院開設に関する、文部科学省の大学設置・学校法人審議会答申が1121日(金)に公表された。申請した72校中、66校が認可され、北陸大学を含めた4校が不認可であった。この日の夕方、大学は、認可されることを前提に予定していた「法科大学院説明会」を富山市で開いた。

  この時、参加した全員に「予定教員や入試日程などを記したカードを『記念に』と配った」(『日経』03.11.22)という。



不認可は大学の体質の現れ



  5日後の1127日、「ロースクールに関する説明会」が法学部棟で開かれた。

しかし私たちには何の資料も配付されず、伝えられたのは、学長と中川専務理事の口頭説明のみであった。専務理事によれば、不認可の理由は「詳しく、沢山指摘されている」という。説明会ではわずか次の「3点に要約した」そうだ。



 @まず、設置の必要性に関しては、設置目的とカリキュラムに一貫性、整合性がない、と指摘された。医事・薬事法、中国法律関連の法曹の人材育成、という方針を撤回し、「人間性豊かな法曹の育成」に変更しながら、カリキュラムに「新たな見直し」をしなかった。

 A基礎科目が過大である、と判断された。【マスコミによれば、「法律基本科目の基礎部分に関する開設科目が過大」で「応用的能力を養う科目の履修が十分に確保されていない」(『毎日』同)】

 B教員組織に関しては、行政法の専任教員がいない、そして年齢構成が偏りすぎている、という指摘がなされた。【マスコミでは、「教員に高齢者が多い」(『朝日』同)】



 新聞報道によれば、「教員審査の厳しさは予想されていた」(『毎日』同)。そこで多くの大学は、文科省と交渉しながら、途中で「補正申請書」を出し、訂正したり、変更を加えて、認可されるよう努力した。しかし、北陸大学は、「全般的に設置準備が不十分であり」(『北中』同)、「教育課程の体系的な編成ができていない」(『朝日』同)と結論付けられた。                       

 私たちには、「詳しい、沢山」の理由が示されないので、@からBがそのすべてであるかどうかは不明である。中心的に係わった教員や経営側は、全貌をきちんと明らかにするべきである。

 理由の全体像を明らかにしないまま、専務理事は、「これらの理由について納得していない」と、不認可に不満を述べた。だが、上の3点だけから判断しても、認可されなかった理由は、偶発的なものではなく、経営側の体質に根ざしているのではないか。

例えば、「目的とカリキュラムに一貫性がない」という指摘を見よう。これは数か月前に「国際人養成学部」という新学部案を提出した際に、文科省から示された「学部名称とカリキュラムが合わない」との指摘と、うりふたつである。この原因は、本来、全学で討議すべき新学部構想を、教授会にも全学教授会にも諮らず、経営側とごく一部の教員だけで秘密裏に作った点にある。その結果、新学部構想は、遅れに遅れ、広報は6月からは不可能になり、結局、9月以降にしかできなくなった。受験生の減少の一因となること必至である。そして今、ロースクールで、再び「一貫性と整合性」の欠如が全国規模で露呈した。

<またか>という印象をもった教職員は多い。さらには「教員に高齢者が多い」という指摘も、経営者は、自らが定めた「規程集」の例外的規程を乱用し続けてきた体質の、一つの現れではないか。

 我々は、文科省の認可措置を丸ごと正当である、と主張するつもりはない。ただ、「厳しさが予想されていた」なかで、これまでの北陸大学の悪すぎる体質が浮上しただけでなく、文科省を甘く見過ぎたツケが回ってきたのではないか。このことがまずもって議論され、反省されなければならない。

 

責任の所在



 ところで、この「ロースクールに関する説明会」は、異様であった。設立準備に中心となって係わった教員たちは、本来、事の顛末を説明し、不認可の責任の所在について語る立場にあった。彼らは、しかし、最後まで沈黙したまま、私たちと一緒になって法人の説明を聞くというお粗末さ。会場から質問されても、回答するのは事務職員という無責任さ。

 さらに、説明を担当した学長も中川専務も、自らの責任には全くふれない。認可された66校は、成績に例えれば、優良可の差はあれ、ともかくも合格した。説明会では、不合格の原因は何か、その責任はどこにあるのか、誰も言及しない。しないどころか、「責任についてどう思うか」と尋ねられた学長は、「認可されれば立派な人材を送り出す責任がある」と答えた。問われているのは、日航の機内誌から地元紙に至るまで膨大な経費で、大がかりな宣伝をしながら、設置が不合格に終わったその責任の所在である。



教職員に「成果」と「合格」を求め、自らは「不可」



 私たちは、認可をめざして努力をされた人々、人知れず苦闘した人々には、ご苦労様でした、とその労を讃えたいとは思う。人の努力は、報いられるとは限らない。とりわけ教育機関では、「成果」などではなく、無償の努力こそが信頼関係の第一の基盤であるからだ。

 しかし、教育のこうした本質に無知な人々が、昨年、教員の査定を一方的に開始した。しかも、9月に初めて「説明」をし、遡って6月からのボーナスに反映させた。私たちは、こうした遡及に反対し、少なくとも昨年1年間は査定の導入をやめ、信頼のおける制度づくりをするよう主張した。

 さらには,専務理事を「編集責任者」とする法人広報誌『With』等で、教職員には「成果」、「達成」、「結果」を再三にわたり要求した。「成果を挙げることに尽きる」「成果を検証」せよ(『With03.1.1)、「どのような結果を出したかを明確にしていくことが不可欠です」(同 03.6.24)、と。また2002年度後期の授業の開始に当たり、学長は「『成果を出す大学』と評価されるよう」教員は力を貸すように、と主張している。(同02.10.7

 翻って、ロースクールは不認可となり、これが全国レベルで報道され、大学のイメージ、評判はますます失墜した。「成果を挙げることに尽きる」と教職員に居丈高に説教をしてきた経営者が、自ら北陸大学を「成果を出せない大学」にしてしまい、加えて「教育課程の体系的な編成ができない大学」と評価されることになった。自らは単位を取れずに<落第>し、その責任の所在も明らかにせず、教職員には「教育の成果においていい結果をだせ」(同 02.3.19)と人に指示する経営者が、「成果主義」と称してボーナス査定を強行している。



高い倫理観こそリーダーに不可欠



 ところで、ドイツの初代大統領は、その演説で次のように国民に訴えた。「人に(人差し指を差し出して)指示をするとき、残りの三本の指は自分に向いています」と。

With』(02.3.19)では、「学長のリーダーシップのもとに目標を具現化」し、教職員に「強い能力集団」となるよう要求している。そうであるならば、学長はまさに今こそリーダーシップを発揮し、まず自らが率先して、責任を引き受け、責任の取り方の模範を示すべきである。査定をされている私たちの少なくとも3倍の量と質で。それがリーダーの資質であり、持つべき倫理観であろう。同時に、理事会も「成果を挙げることに尽きる」などと訓辞を垂れた以上、その責任からは免れない。自分たちの成果、結果が出なかったことをどう評価するのか、そして責任をどのようにとるのか、率先して明らかにする責務を負っている。

 にもかかわらず、122日に行われた団交で、責任の所在を尋ねられた経営側は、「努力したが結果が出なかった」「精一杯やったことが大事だ」(松村常務)と答えた。

冗談ではない。私たち教職員組合こそ、団交や組合ニュースで「精一杯努力」することこそ最も大切なことであると主張してきた。事実、次々と仕事が押し寄せる中で、教職員は皆、努力し、精一杯やっている。だが、私たちを「成果、結果」で査定し、自分たちは、「努力」を自賛している。

  今や、北陸大学を支えているのは、「成果、結果」が出せず、全国的に評判を落とした経営側とその追随者たちではない。私たち教職員には一切関係がないにもかかわらず、学生との対話の中で、地域で、知人の間で、研究会で、そして学会等至る所で「日本刀事件」が語られる。直接口に出さない人々は、気を使いつつ「大変な大学ですね」と同情をする。私たちは、また無言の視線も背に受けている。こうした中で、「精一杯やっている」のだ。教職員の努力こそが、今、大学を支えている。



お詫びと訂正 203号で総合教育センターに配属予定の外国語学部・法学部の教員25名としましたが24名でした。また、非組合員は全員が新学部の授業を担当するとしましたが、非組合員でも2名の教員は担当をはずされていることが判明しましたので訂正してお詫びいたします。失礼いたしました。