北陸大学教職員組合ニュース第162号(2000.11.27発行)

 

   そごう、雪印問題の教訓

    企業の反社会性の原点:「今は、会社のために我慢しよう」

 

そごう:ワンマン経営者、年俸、毎年4億円

大手百貨店では、戦後最大の倒産を記録したそごうでは、水島宏雄氏が38年間も トップに君臨し、年間報酬を本社と各社から毎年計4億円を得ていた。「常識外の報酬」(『北陸中日』2000.7.24)である。一方で、94年からリストラ計画が実施されていた。更に、このワンマン経営者が引き出した融資額は、総額1兆8千億円にのぼり、「わたしが担保だ」ったという。労組は「他の百貨店との競争に勝つために」「会社の発展のために」、抗議の声を自粛していた。結局、会社共々つぶれてしまった。反社会的な報酬を許す体質を有していたため、といわれるゆえんである。

「健康を売る」会社・雪印:各工場の「保健相談室」を閉鎖、そして衛生管理置き去り

雪印の衛生管理のずさんさは、既に広く社会に知れ渡ったが、この問題が起こる以 前に、工場と支社の「健康相談室」が閉鎖されていた。解雇された保健婦さんたちは、従業員のケガの手当、健康指導を通じて製品の安全衛生の維持に寄与していた。従業員の健康管理を無視したリストラは、集団食中毒を引き起こした原因に通ずる安全意識の低さを表している。西日本の一工場だけでも「蒸気や薬品によるやけどで一日20人」(『毎日』2000.7.25)もの人々が相談室に駆け込んでいた。にもかかわらずこれを閉鎖した企業体質が食中毒につながった。ここで問題は、労働組合の姿勢である。

次の投書は、会社の反社会性に協力する組合の犯罪性を告発している。

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雪印の食中毒から見える日本の労働組合の危機               匿名希望

 雪印乳業の食中毒事件でさまざまなことを考えたのだが、その一つに「日本の企業別組合の存在意義」がある。

 現場で行なわれていた食品製造上の違反行為,安全性無視の実態については、誰よりも現場の労働者が知っていたはずだ。現場の労働者とは組合員であろう。雪印乳業の組合は、れっきとした産業別労働組合にも役員をおくっている。にもかかわらず、現場の組合員からの「違反行為」についての声は届かなかったのだろうか。届いていたのに無視したとは思いたくないのだが、少なくとも現場組合員と組合幹部との間に日常の信頼や意思疎通がきちんとしていれば、このようなことは是正されていたのではなかったのか。もしも、幹部らも知っでいながら黙っていたとすれば、問題はより深刻であり、組合のチェック機能は全く働かなかったことになる。

 日本の組合は往々にして組合員の権利や雇用、職場環境の安全を守るよりも企業の存続を第一とする傾向があり、そのために、労働者が犠牲となってしまう。したがって、組合費を支払いながらいざという時、何らその恩恵に浴さないのが日本の企業別労働組合の労働者である。民主主義とは少数者の尊重だといわれるが、日本の社会においては多数派に文句を言うものは排除される。企業経営者も物分かりの良い労働組合を作るの

に腐心してきた。こうして物分かりの良い、体制に都合の良い組合ばかりとなり、長い間組合費を納め、組織を維持してきた労勘者はリストラにあっても組合には助けてもらえず,黙って自殺していく。雪印の労働者にとっては雇用の危機であろうこうした事態を誰が作ったのか。

 経営者の犯罪的とも言える無責任についてはいやと言うほど見せ付けられたが、組合幹部にも責任の一端はあるのではないか。反対者を排除してきた経営者も、経営者と馴れあってきた組合幹部も最後に自らの首を絞めることになろう。その構造は一人雪印だけでなく日本の社会のあちこちにころがっているようだ。 (『週刊金曜日』2000.8.4

 

 

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with 批判

「WITH no.12」に想う 一組合員より投書(第二回目)

 20001012日付け「WITHno.12」の「後記」は、前大阪府知事の不祥事を「選挙結果が必ずしも正しくない象徴的な事件」であると位置付け、こうした結果を招いた99年の府知事選挙を「多数決原理に基づく民主主義の落し穴」の原因であるとしている。そこから、リ−ダ−の選出には、「選ぶ側としての責任の意識と見識の高さ」が「票の多さ」(多数決原理に基づく)よりも重要だと結論づけている。この言説について、「代表」、「責任」、「リ−ダ−シップ」の3点から考えてみたい。

 「後記」は、「代表」を選んだ構成員「全体」の責任を見逃している。自分の選んだ候補が「代表」にならなくても、構成員「全体」として選出された「代表」に対する責任がすべての構成員に存在する。ところが、「後記」では「横山候補以外の候補を指示した府民は、府政の停滞をはがゆい思いで見守るしかなかった」と述べているところから、この言説には選挙によって選出された「代表」は特定の集団の代表であるという認識がある。この認識は、「民意」の統合の具現化されたものが「代表」であるという近代の「代表」概念とは異なっている。こうした「後記」の「代表」観では、自分たちにとって「良い代表」には全面的に寛容であるが、そうでない「代表」は「悪い代表」であり、非寛容の態度をとる。これでは、異論の存在ないしそれによる議論の活性化から生ずる、多様な価値の共存という近代的な「政治」の目標を否定するものである。

 「民意」の総体としての「代表」という考えは、「民意」の多様性の反映でもある。政治領域の拡大にともない、自明とされた同質性が解体し、「擬制」としての同質性が確保される必要が権力の正当性の面から生じた。この「擬制」は政治と倫理の乖離によっても一層求められることになった。すなわち、価値の相対化はより一層の意見の交流と合意形成のための不断の努力が構成員全体に求められ、かつ良い目的から必ずしも危険な手段やあしき結果を正当化することはできなくなったのである。にもかかわらず「後記」の「選ぶ側としての責任の意識と見識の高さ」という表現には、「良い」価値の相対化という現実への認識はみられず、「心情倫理」(行為の意図の高潔さによって結果を判断する)に基づく政治責任の追及よりも「責任倫理」(予見可能な行為の結果においてのみ責任をとる)に基づく追及を重視することも想定されていない。

 「リ−ダ−シップ」の点からも、「後記」には疑問がある。政治における「リ−ダ−シップ」(指導能力)は、いまや政治担当者の資質論を超えて「状況」における集団の意思決定における機能として認識されている。つまり、集団の意思決定過程において主要な方向付けを行なうための機能が「リ−ダ−シップ」であるとみなされている。ここでは、「集団の構成員(「フォロワ−」)の「総意」の反映が「リ−ダ−」の権力行使際行の正当性の根拠になっている。いいかえれば、「リ−ダ−シップ」は「フォロワ−」の自発的な支持・服従といった行為なしには成り立たない。したがって、「リ−ダ−」「フォロワ−」ともに相互に粘り強い働き掛けが必要になる。「フォロワ−」にとって「(リ−ダ−を)選んでしまえばあとは御役御免」になるという訳にはいかないのである。

 以上のようにみてみると、構成員全体の「代表」ならびに「リ−ダ−」への積極的な働き掛けによって初めて「選ぶ側としての責任の意識と見識」が実証されるのであり、多数決原理にのみ原因を帰属させるのは筋違いである。